いだてんの金栗四三の生い立ちを紹介!グリコの走る人のモデルになった?
2019年の大河ドラマが『いだてん』に決定しました。
この作品は日本のマラソン界やオリンピックに大きな貢献をした人物・金栗四三が主人公になっています。
2020年に東京オリンピックが開催されるのオリンピックにゆかりがある人物が大河ドラマに選ばれたみたいですね!!
では今回は、大河ドラマ『いだてん』の主人公でもある金栗四三について紹介していきたいと思います。
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いだてんとは?
2019年からスタートする第58作品目の大河ドラマです。
引用:NHK
あらすじ
描かれるのは、日本初参加となった1912年のストックホルムオリンピックから1964年の東京オリンピックに至る52年間です。マラソン選手として日本人初出場しながら、不本意な結果に終わった金栗四三と、東京にオリンピックを招くため尽力した田畑政治、2人の日本人の苦労と奮闘を3部構成かつリレー形式で描きます。 挫折からの復活を目指す金栗は、第一次世界大戦による大会中止などに直面しつつ、団長だった嘉納治五郎らの助けを得て厳しい練習に取り組みます。日本は1936年のベルリン大会でようやくスポーツ大国と認められ、また田畑政治らの招致活動によりようやく東京オリンピック開催が決定します。 ところが、太平洋戦争開戦を理由に返上を余儀なくされてしまいます。その後、敗戦から見事に復興して1959年、ついに5年後の東京オリンピックが決定しますが、開会に至るまで田畑らはさらなる幾多の問題解決を迫られるのでした。
引用:ciatr
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金栗四三とは?
名前:かなくり しそう
生年月日:1891年(明治24年)8月20日 〜 1983年(昭和58年)11月13日
出身地:熊本県玉名郡春富村
死没地:熊本県玉名市
金栗四三は日本のマラソン選手です。
別名「マラソンの父」という言われています。
金栗四三は選手としてだけでなく、師範学校教師や熊本県初代教育委員長などを歴任。
いつも年明けに開催される東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力を尽くした人物なのです!!
日本のマラソンに大きな貢献をしたので「マラソンの父」とも言われています。
では、金栗四三はどんな生涯だったのでしょうか?
生い立ち
誕生
明治24年(1891年)8月20日、金栗四三は熊本県玉名郡春富村(現・和水町)にて誕生しました。
『熊本県:和水町』
金栗四三は男4人、女4人の8人兄弟で7番目。
幼い頃はかなりの虚弱体質だったのですが、5歳の頃には、すっかり体も成長し、やんちゃな男の子になりました。
金栗四三は吉地尋常小学校、玉名北高等小学校、玉名中学校へと順調に進学しました。
成績はとても優秀で学年で1、2位。
勉強がとてもできました。
しかし、運動はあまり得意ではなかったので、小学校へは片道12㎞の道のりを早足、または走って登下校。
中学校では、寮へ寄宿しましたが、週末には片道20㎞を走って実家へ戻っていました。
進学
海軍兵学校を受験するが不合格、明治43年(1910年)東京高等師範学校に進学しました。
東京高等師範学校(現在の筑波大学)
成績優秀だった金栗四三は海軍兵学校への進学を目指しました。
しかし、結膜炎のせいで身体検査に引っかかってしまい、不合格になってしまいました。
そのため、すべりどめとして受けていた東京高等師範学校に合格し進学しました。
出会い
明治43年(1910年)4月、東京高等師範学校に進学しました。
そこで人生を大きく左右する人物に出会います。
名前は、嘉納治五郎。
「柔道の父」であり、講道館を設立して柔道の普及に尽力し、また日本の教育界にも多くの功績を残した人物です。
引用:wiki
金栗四三が入学した時、嘉納治五郎は東京高等師範学校の学校長していました。
嘉納治五郎は『知育、徳育、体育の三育』を教育理念に掲げ、勉学だけでなくスポーツを推奨していました。
そのため、年に2回、マラソン大会を開催していました。
これが、マラソンと金栗四三の出会いでした。
年に2回開催されるマラソン大会に金栗四三も例外なく、出場しました。
結果はいまいちの25位でゴール。
これは、今まで、金栗四三はマラソン大会とは無縁だったので本当の実力を発揮できなかったみたいです。
秋のマラソン大会では見事に3位入賞。
この記録は、嘉納治五郎から表彰されたみたいですね。
徒歩部(陸上部)に入部
マラソン大会で好成績を残した金栗四三は徒歩部(陸上部)に入部することになりました。
ここで金栗四三はメキメキと実力をつけていきます。
そして、校内のみならず学生界でも敵なしのマラソンランナーへと成長しました。
オリンピックの予選に参加
東京高等師範学校の学校長であった嘉納治五郎が東洋ではじめてのIOC委員(国際オリンピック委員会)に選出されました。
そして、1912年の第5回ストックホルムオリンピック(スウェーデン)への日本の参加を求められていました。
徒歩部(陸上部)のメンバーとしてマラソンに全力を注いでいた金栗四三なのですが、嘉納治五郎の推薦で予選に参加することになりました。
日本人初のオリンピック選手になる
オリンピックの予選に参加した金栗四三は見事優勝し、オリンピックに参加することになりました。
この時に、東京帝国大学の短距離ランナー・三島弥彦もオリンピックメンバーに選ばれました。
ストックホルムオリンピック開催
明治45年(大正元年・1912年)5月16日に日本を出発、17日間掛けて翌月2日にストックホルムへ到着、船でウラジオストック、シベリア鉄道を使っての長旅でした。
そして明治45年(1912年)7月6日、金栗四三は「NIPPON」表記のプラカードを持ち、三島弥彦が日章旗を掲げて入場、日本がはじめてオリンピックに名を刻んだ瞬間でした。
三島弥彦は100m、200m走の予選に出場しますが、自己新記録をマークしても最下位となりました。
金栗四三はマラソンに出場しました。
金栗四三は大会本部に棄権届けを提出し忘れたため、記録は「棄権」ではなく「行方不明」扱いとなり、この事がのちに大きな感動を呼ぶことになります。
帰国後、すぐに金栗四三は次回『ベルリンオリンピック』に向けて練習を開始しました。
ベルリンオリンピックは中止に
ベルリンに向けて準備を進めるなか、大正3年(1914年)ヨーロッパではオーストリア皇太子暗殺に端を発した第一次世界大戦が勃発、世界を巻き込んだ戦争は大正5年になってもおさまらず、ベルリンオリンピックは中止が決定、金栗四三は26歳と言う年齢的にも能力的にも脂の乗った競技適齢期を戦争によって奪われてしまいます。
マラソンの普及に全力を尽くす
東京高等師範学校研究科を卒業後、神奈川師範学校に赴任、兵役はオリンピックでの活躍こそが日本国のためと判断されて免除となったため、金栗四三はより一層マラソンや長距離走の普及、強化に力を注ぎます。
では、『グリコ』とはどんな関係があるのでしょうか?
グリコとの関係性は?
グリコといえば、このマークですよね。
「走る人」のマーク。
金栗四三が関係あるかはすぐにわかりませんが、『マラソン』が関係しているのは間違いなさそうですね。
では、金栗四三が関係あるのか調べて見ました。
残念ながら、グリコがモデルにしたという正確な記録がありませんでした。
グリコの記録に残っているのは、「極東オリンピック(第5回極東選手権競技大会)で優勝したカタロン選手(フィリピンの選手でマラソンで優勝)をはじめ、パリオリンピック(1924年開催)に出場した谷三三五(たにささご)選手やマラソンの金栗四三(かなくりしそう)選手で、その他、当時の多くの陸上選手らのにこやかなゴールイン姿をモデルにした」ということでした。
そのことから、グリコの『走る人』は多くのアスリートをモデルにした
もしかしたら、金栗四三もモデルにした可能性はありそうですね。
個人的には、金栗四三をモデルにして欲しかったです!!
ちなみにグリコの『走る人』はこちらで見ることができます!!
住所:大阪府大阪市中央区道頓堀1丁目10
まとめ
・金栗四三は熊本県玉名郡春富村で誕生した。
・グリコの『走る人』のモデルは金栗四三やたくさんのアスリートがモデルになった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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